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― 魔女の本棚 ― 

【3】考えるための覚書

「魔女の最低条件」で考えることの大切さについていろいろと述べてきました。
ここでは、考えるために参考になることを一旦まとめてみようという趣旨でブログを加筆訂正しながら一まとめにしてみました。


   1.宗教と科学
   2.固定観念という罠
   3.思考能力と人類としての価値

1.宗教と科学

よく、科学的な話は信用するが宗教には無理解な人を見かけます。科学を絶対と考えがちな人たちから見ると、宗教というのは、ある意味客観的な根拠に乏しい、地に足のついていないものに感じられることもあるようです。

ただ、私から見ると科学もある意味宗教と同じようなものだと思います。
一つだけ例を挙げれば、今の自然科学の根本的な考え方の原子、それを構成する素粒子である陽子、中性子、電子のどれもまだ人間は見たことがないわけで、それらが「あると信じる」所に立脚しているのは明らかなのですから。

そもそも「科学的に」という言葉を口にする人はどのくらい科学というものの信頼性を理解しているのでしょうか。私はよくこういう質問をします。

「科学と学問の違いはなんですか」

これについての答えをぜひ考えてみていただきたいのです。国語辞典などをひっくり返してもけっこうですので、自分なりの答えをぜひ考えてみてください。


さて、自分なりに考えていただけたでしょうか。では正解です。

「同じもの」

です。と、言われてもよくわからない方のほうが多いと思いますので説明をします。

そもそも、学問も科学も昔からあった言葉ではありません。
もとをただせば「学」という言葉ありき、なのです。
いわゆる学問全てをもともとは「学」と読んでいたのですが、文明開化の時代西欧の文化が流れ込んできたときに英語の「science」という言葉が輸入されました。ここで、日本人は大いに困ったのです。と、言うのも「science=学」だったからなのです。

別に困ることはない、と思うかもしれませんが、当時は大問題だったのです。清とイギリスとの間に1840年から2年間に渡って行われたアヘン戦争でイギリスは清に勝ち、その足で日本にきた、という経緯があったからです。絶大な軍事力を誇る戦勝国イギリスの言葉を敗戦国清の言葉に置き換えたりしたら、イギリスが侮辱されたとして日本にも戦争を仕掛けてくるかもしれない、と当時の日本の学者たちは考えたわけです。そして「science」の訳語として「科学」という言葉を作ったのです。さらに「科」+「学(敗戦国の言葉)」では、まだ危険があるかもしれない、として「学」と本来読んでいたものを「学問」と呼ぶことに決めたのでした。「学問」という言葉は「科学」の言い訳として作られたような経緯だったのです。

学問という言葉については違った説明も説としてあるのですが、少なくても現代語の「学問という単語」の誕生はこの「scienceの訳語問題」において生まれたのです。

と、考えると「学術上では」という言い方ならまだしも「科学的に」という言葉はあまり信頼性があるものでもないのです。そして、「学術上」という考え方をした場合、その中には形而上学上のものである宗教も入れざるを得ないので「科学的なものなら信じるが…」と言いたい人には都合が悪いのです。

また、厳密に言葉を考えていくと「科学」が客観的に正しいと仮定したとしても「的」という言葉をつけた瞬間にその信頼性は問題を含みます。「A(名詞)的」というのは「限りなくAに似ているけれども違うもの」という意味を持つ言葉なのです。簡単に言えば「Aっぽい」です。と、すれば「科学的なものは信用できるが」という言葉を子供にもわかるように優しい言葉に書き直すと「科学っぽいものは信用できるが」ということになってしまい、結局は「単純な主観だけでものを言っている」と自ら白状していることになってしまい、宗教上の考え方を否定できるほどのものでは間違ってもないということになってしまうのです。

言葉尻だ、という反論も出るかもしれません。しかし、このような言葉の厳密な用い方すらできない人が「科学」と「宗教」に優劣をつけることなどそもそもできないのです。

こうして「科学的な話は信用するが宗教には無理解な人」というのは所詮単なる感情論に立脚した主観論者の主観的意見に過ぎないことがいえるわけです。

こうした論点からも「私から見ると科学もある意味宗教と同じようなものに見える」という言葉の意味がわかっていただけると思います。しかし、だからと言ってそれが良いとか悪いとかを言いたいわけではありません。「科学的な話は信用するが宗教には無理解な人」が存在する限り、宗教は科学と同じくらいの重みを人間に対してもっている、ということが彼らの存在によって証明され続けている事実を示しているに過ぎないというだけです。

そして、宗教はあくまでも形而上学上のものに過ぎません。それがどんなに将来学術上定理のごとく証明できる真理を示していたとしても、宗教は自らを宗教だという限り、常に形而上学上のものに過ぎず、真理だと主張することはしない謙虚さを保っているのです。

自然科学にしても仮説体系に過ぎません。ゆえに新しい発見によって昨日までの、もっと言えば今朝までの真理が一瞬にして崩れ去る可能性を常に持っているのです。そして、そのつみなおし作業こそが科学の進歩なのです。そう考えると仮説体系である宗教となんら変わるところはないのです。

こうした視点で物事を見る目を宗教に関わるものほど持って欲しいものだと私は思っています。

(初出:橘青洲ブログ 2007.8.29・30)

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